柳田旅館の歴史

柳田旅館の歴史

柳田旅館の歴史は古く、その前身の様子を資料で窺うことがことができます。

日高の東の玄関は、えりも町である。ホロイツミ(幌泉)といわれたその昔からえりも町の歴史は古く、幌泉のアイヌが 文献に記録されたのは室町時代の永正十二年(1515年)の庶野コウシの反乱であると町史は伝えている。それから八十年後の慶長年間には漁業基地「幌泉場所」が開設された。静内の酋長シャクシャインが猛威をふるって和人二百七十人余りを殺戮した寛文九年(1669年)には松前藩の知行地として交易が行われていたのである。
北海道の文化の原点ともいえる漁場の盛衰は町そのもの消長を意味している。東蝦夷地の日高管内に限っていえば幌泉場所の隆盛は群を抜いていた。(「季刊ひだか伝説」より 発行:文林堂出版)

船宿・柳田旅館の誕生

明治以前より小越しに住んでいた人は、山形又兵衛、柳田勘之助、会田善九郎、吉井大吉、飯田勘次郎等である。
当時は、陸路が無く食糧、物資の運搬は、函館より船で運ばれていた。沖合に停泊した船に昆布漁に使う小舟が昆布や塩サケを積み荷の交換を行っていた。     
時化が続くと何日も乗組員は、沖で停泊し船酔いも酷いものであったので柳田勘之助は乗組員を帰りの小舟に乗せ陸上で休養出来る為に部屋を増築した。
これが船宿の始まりであった。(えりも町史より)


偶然の発見

偶然にも日高支庁の古い資料が道庁で見つかりました。それは逓信台帳という道内の駅逓所の戸籍謄本のようなもので、そこには現在の日高・えりも地区にあった小越駅逓所と柳田旅館の存在を示すものでした。

当時は、えりも岬の事を小越(おこし)と呼んでおりました。小越駅逓所は、柳田旅館のことです。

小越駅逓所台帳 (札幌駅逓資料調査会・桜井勝治氏提供による)

駅逓は、個人の所有物ではなく逓信局が土地・建物を買取(またはは寄付)っていたようです。以前の所有者は、使用人として働き賃金を得ていた事をはじめて知りました。
建物の増改築歴、所有馬の詳細も記されています。

駅逓は、個人の所有物ではなく逓信局が土地・建物を買取(またはは寄付)っていたようです。以前の所有者は、使用人として働き賃金を得ていた事をはじめて知りました。
建物の増改築歴、所有馬の詳細も記されています。
この資料の絵をみると、駅逓から次の駅逓に行く時はライフルや拳銃の所有をしていたようで、
アメリカ西部劇の幌馬車が思い起こされます。

田旅館には「お宝」があります。母から管理を委ねられた「花瓶」です。
産地も分からない。価値のほども分からない。
ただ、古いこの花瓶には、柳田旅館の歴史が刻まれています。

マノア号の救助

昭和12年8月2日 オランダ船・マノア号(9,200トン)は、枕木材を中心に7,300トンの荷を積み中のくきとう近くで概ね進行方向に、そのまま座礁・・・(中略)・・・その後、函館サルベージ会社の手によって曳下げが成功した。船底に二か所の穴があったが枕木の浮力と船体の重量を計算して、そのまま曳下げし無事室蘭に曳航修理した。(斎藤徳太郎著「えりも岬のあしあと」より抜粋)

この時の詳細な記録は残っていません。そのため確かなことは分からないのですが乗組員20名ほどが救助され、数名が当時の柳田旅館に2週間ほど宿泊しました。期間中、言葉の壁はあったものの地元と交流を深めたといいます。写真は、その際に撮ったもので、右から3番目が柳田キサ、6番目の腕組をしている男性がマノア号の船長。他の乗組員や近所の人も写っています。

えりもを去る際に、船長から宿代の代わりなのか記念なのか分かりませんが、土産用だったという「花瓶」を渡されました。これが件の花瓶です。


昭和58年の春、この船長の孫娘とおっしゃる方が柳田旅館に2泊しました。祖母キサとこの写真を見ながら身振り手振りでの会話が実現しました。翌日は、えりも岬灯台、浦河の海上保安庁を訪ね当時の感謝を伝えたといいます。
えりも岬で遭難した時のお礼をするのが船長一家にとっての夢だったらしく、孫娘が一家の願いを叶えたということで、当館にとっても嬉しいできごとでした。


謝辞

柳田旅館の歴史を記すに当たり札幌駅逓資料調査会の桜井勝治氏が道庁に何度も足を運び、当館の資料を見つけ出してくださいました。
さらに数々の資料をご提供いただくとともに、ご指導・ご教授くださいました。心より感謝申し上げます。
また桜井氏と当館を結び付けてくださいました奈良富雄氏(元襟裳岬小中学校校長)、「えりも岬のあしあと」でご協力いただきました斉藤徳太郎氏、えりも町郷土資料館様、浦河海上保安庁様にも深く感謝申し上げます。

※当館では上記資料等、地域の歴史的資料を展示しております。